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HISTORY260年のあゆみ

江戸の時代から260年。
エスエス製薬は、さまざまな時代に生きる人々の気持ちに応える薬をお届けしてきました。
これからも皆さまの健康に寄与するべく、
ご愛顧いただけるブランドを育てて
まいります。

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江戸時代

Edo period

江戸創業期漢薬本舗「美濃屋薬房」創業

御江戸大絵図(天保14年/1843年)

オレンジ色で示している区画に「ミナミマキ丁」の町名(現在の八重洲南口)が見られる。江戸時代から昭和25年までこの場所に当社(当薬房)があり、販売をおこなっていた。
(出典:人文社)

エスエス製薬の前身は、明和2年(1765年)美濃国(現在の岐阜県)より出府した白井正助(初代)が興した漢薬本舗「美濃屋薬房」です。店舗を江戸城辺河岸に創設したことから本格的な商いがはじまり、白井家に代々妙薬として伝わる「人参梅花香」「神功丸」「順喜消毒散」「保寿丹」などを販売していました。

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当時店舗は、日本橋のはずれに位置し、現在の東京駅八重洲南口外堀通り沿いに小規模な店構えでスタートしたようです。

天下泰平の世ともなれば人々は健康で快適な生活を求めることは当然の成り行きです。当時の庶民は、病気を予防し治すための薬を求めるようになり、水戸藩の医師・穂積甫庵の書いた「救民妙薬」がベストセラーになるなど、薬についてかなり詳しい知識を有していたようです。

なお、「美濃屋薬房」創業の年は、幕府の正式な許可を得た西洋医学の治療院「医学館」が創設されたというわが国の医学業界にとっても記念すべき年でした。このような世の中の動きを鋭敏に捉え、家伝の妙薬を事業化した初代正助の才能は江戸で高く評価されました。正助は、ロゴマークの「金瓢箪」を店の屋根の上にかかげ、また販売人が肩から掛ける包みの上にもその効能と金色の瓢箪をつけて江戸市中を歩くなど巧妙な宣伝をし、江戸中の評判になりました。 創業当時からブランド戦略に長け、それが今日まで受け継がれていく事となります。

写真(左):初代 白井正助
写真(右):二代目 白井正助

江戸で親しまれた「瓢箪屋」

創業者、初代正助の跡を継いだ二代目正助、三代目正助、四代目正助(名前を代々襲名)は、1700年代終わり頃から1800年代前半にかけて、一層家業の隆盛に力を尽くし、江戸市中では「美濃屋薬房」はむしろ 「瓢箪屋」として庶民から愛され親しまれました。

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当時の様子は京橋区史の中にも「美濃屋の売り出しにかかる、ヒビ、アカギレの妙薬で、文政の頃(1818~1829年)の川柳に“氷裂に梅花をつける下女のヒビ” とあり大変に好評を博していた」と書かれています。評判が高まり、屋号も正式に「瓢箪屋薬房」に変えることとなりました。

写真(左):「人参梅花香」ののぼり
写真(右):買物獨案内(早稲田大学図書館所蔵)

明治~
大正時代

Meiji-Taisho era

繁栄から試練への明治・大正期試練の明治期

1868年、260年続いた鎖国が解かれ、世は明治となり、江戸は東京と改称されました。医療も西洋化が模索されましたが、庶民の生活では未だ和漢薬への依存度が高かったようです。

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明治22年(1889年)の薬律によって全国的に薬種商や薬局が整備されたことに伴い、当薬房の販売も卸商と一括特約をする等、販売網を地方へと拡大していきました。

写真:瓢箪屋薬房の正面

家業再興・波乱の大正期

1912年にはじまった大正時代には、六代目正助の再建努力が実ります。製造の本拠地を新たに東京市荏原(現在の品川区)に置き、和漢薬に加え化学合成薬の開発、製造を行いました。また、全国的販売網が整備され、大きな成果をあげはじめていました。

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このように着々と再興を進めていた当薬房でしたが、第一次世界大戦終結後のデフレ波が押し寄せ、また同時期に関東大震災が発生し、東京荏原工場は大打撃を受け製造不能の状態に陥りましたが、大阪出張所を足がかりにした製造体制で乗り越えました。

大正3年には売薬法が公布され、薬剤の販売が薬剤師にのみ限定されました。このことは、大衆薬(OTC医薬品)に対する社会的、科学的評価に繋がり、社会から信頼を獲得していく大きな出来事となりました。

昭和

Showa era

「株式会社瓢箪屋薬房」
そして「エスエス製薬」へ
株式会社瓢箪屋薬房のスタート

昭和2年(1927年)10月29日、「瓢箪屋薬房」は法人化し、「株式会社瓢箪屋薬房」となりました。当時の大衆薬(OTC医薬品)としての薬効群はほとんど生産し、「人参梅花香」といった江戸創業当時から170年間も愛用された製品もつくり続けられました。

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新年挨拶(昭和9年/1934年)
前の年に上皇陛下がお生まれになったことが書かれている。

この時期当社では大衆薬(OTC医薬品)の分野において、あらゆる需要に対処できる生産体制が荏原、小石川、板橋の3工場で完備し、流通チャンネルの確立とあいまって、全国的にその知名度を拡げていきました。

昭和15年(1940年)には社名が現商号である「エスエス製薬」に変更されました。当時の社長は六代目・白井正助です。

しかし昭和12年(1937年)の日中戦争開始の頃から戦時経済統制の影響を受け始め、自由な市場経済下での活動は、少しずつ困難なものとなり、やがて国内にも戦火がおよぶ昭和10年代末には、企業活動も実質的に停止といった状況に追い込まれました。

第二次世界大戦の戦火が拡大するにつれ、薬剤の生産は事実上ストップし、昭和20年(1945年)には空襲により荏原工場焼失。ここに生産機能はまったく喪失し、企業活動は終戦に至るまで中断のやむなきに至りました。

”エスエス”の由来

ボランタリーチェーン「瓢箪屋薬房エスエス」が誕生しましたが、ここではじめて「エスエス」の名称が登場します。

これは、良い薬を供給し、そのことが国民の健康維持、増進に寄与するという「社会奉仕(SOCIAL SERVICE)」のイニシャルをとったものであると言われています。

のちに、「科学を探求し社会に貢献する(Science & Society)」という意味も加えられました。

戦後の復興と事業拡大戦後の復興

昭和20年(1945年)8月15日、日本は連合国へ無条件降伏。ここに第二次世界大戦は終結しましたが、戦火の傷跡はきわめて大きく、当社にとっても生産設備はもとより、すべての建物は焼失し、企業活動は停止状態でした。

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しかし当社はいち早く企業活動の再興に着手し、生産設備の復旧で生産を再開、販売先薬局とのコンタクトを進めるなど事業活動を展開し、一部製品の製造を開始しました。

また史料によると、「昭和20年8月16日早朝を期して荏原工場の地に社員の手によって復興がはじめられ」とあり、男性社員のほとんどが兵役にとられ男手のない中、年老いた人々と女性従業員というきわめて少人数の力によって、工場と本社の再建の第一歩が記されました。当時を知る人からの伝聞では、「工場を再建するにしても、その資材はほとんどなく、従業員1人ひとりが大変な苦労をし、それこそ木材1本、釘1本、トタン1枚などをあちこちからかき集め、ようやく建物をつくりあげた。また、機械器具を揃えるのも大変なことで、機械も従業員の手製のものから揃えられた」と語られています。

新年挨拶(昭和9年/1934年)
前の年に上皇陛下がお生まれになったことが書かれている。

また、当時は衛生状態が極めて悪く、チフス、赤痢、結核などが蔓延し、庶民の間で薬へのニーズは高まっていました。しかし占領軍・政府による統制で、製薬メーカーは原料や資材を手にいれることができず生産もままならない状態が続きました。

事業の拡大、経営体制の変化へ

占領軍による統制時代を経て、いよいよ高度成長期へと向かうこの時期、当社も大いに成長を遂げました。昭和26年(1951年)12月には、江戸時代から続く創業地(現在の八重洲)を離れ、本社を銀座に移転新築。同時に大阪支店も移転新築しました。

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また、新聞広告、ラジオ広告、薬局繁栄講座の全国開催、「家庭の衛生」の発行、会員互助会組織「エスエス・ブラザース・アソシエーション」(SBA)の発足など活発な動きがありました。

昭和27年には、「うさぎマーク」がエスエスチェーンの統一マークに決定。エスエス製品のブランドマークや社章として使用され始めました。

しかし昭和33年(1958年)2月、金融操作の誤りから経営不振に陥り、これにより当時の社長の六代目・白井正助が退陣し、土手守吉が社長に就任。

江戸創業以来つづいた白井一族の手を離れることになり、11月には泰道三八(後に照山と改名)が社長に就任しました。

写真:うさぎマーク

新生エスエス製薬と工場の近代化新生エスエス製薬

大変厳しい状況下、新生エスエス製薬は全社一丸となって会社再建へと向かっていきました。昭和38年(1963年)、本社を銀座から日本橋の水天宮前に移転。成田工場の建設にも着手。

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またシンボルマークのうさぎに名前をつけることにし、一般公募した結果、「ピョンちゃん」に決まり、今日まで親しまれるキャラクターとなりました。

昭和39年(1964年)、東京オリンピックの開催年には、念願の成田工場が第一期工事を完了し、ただちに操業を開始し、以降拡充を重ね当社生産活動の中心的存在となりました。

写真(左):水天宮本社 写真(右):ピョンちゃん名前決定

成田工場の建設と成田市

成田工場は、成田山新勝寺の門前町である成田市の企業誘致第一号として進出したものです。生産活動の進出当時の成田市は、新勝寺のほかにはこれといった近代工場施設もなく、豊かな田園風景が広がっていました。

成田市はその後、新東京国際空港(現在の成田国際空港)の開業もあり、工場周辺の環境は一変し、同市は国際都市として知られるようになります。

写真:成田工場建設

信頼されるメーカーとして

昭和40年(1965年)には、全国の販売網拡大を支えるために大阪支店新社屋を建設。また11月に新しい本社社屋を、日本橋浜町に落成。

写真(左):東証第二部上場(当時のエスエスチェーン通信) 写真(右):当時の主力製品

昭和47年(1972年)5月には、新しいL-システイン製剤として「ハイチオールC」を発売。またこの年、エスエスチェーン薬局に新しいアイドル「Vサインピョンちゃん」が誕生しました。

写真:「ハイチオールC」発売

平成

Heisei era

海外メーカーとの新たな提携

昭和60年(1985年)、医療用薬品をOTC医薬品に転用するスイッチOTC薬の当社第2弾鎮痛解熱剤「イブ」を発売し、エスエス製薬の開発力が高く評価されました。

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昭和63年(1988年)、アメリカのアイバックス社と資本技術提携し、開発力の強化と海外拠点づくりを行いました。一般用医薬品部門では、ドイツに本社拠点を置くベーリンガーインゲルハイムから導入した日本初のいびき抑制剤「アンスノール」といったユニークな新製品を投入し注目を集めました。

平成元年(1989年)、時代は昭和から平成へと変わり、医薬業界はさらに、世界的な規模でものを考え進めていかなくてはならない時代になってきていました。当社ではアメリカのアイバックス社に続き、ドイツのヌトリケム社との資本提携、アジアでは韓国の海東製薬に出資し、海外の拠点づくりに力を入れました。

ベーリンガーインゲルハイムとの提携

平成9年(1997年)、日本ベーリンガーインゲルハイムは、この時点で、当社の筆頭株主(持株比率9.2%)となりました。従来より当社と取引関係にありましたが、これを機にさらに提携が進みました。

コンシューマーヘルスケアの担い手として新しい経営理念の策定

平成9年(1997年)、会社設立70周年を機に、新たな経営理念「すべての人々の健康を願い、限りない探求と挑戦をつづけ、信頼され、親しまれるヘルスケアの担い手を目指す」を策定。

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また、その象徴として、 翌年に従来のうさぎのマークをモチーフにした「生命の躍動感」を感じさせるデザインを新ブランドマークに採用。社章社名ロゴ、英語名(SSP CO.,LTD.)を一新しました。

写真:本社新設(平成20年/2008年)

平成10年8月には、成田工場において、環境マネージメントシステムの標準規格ISO14001を認証取得しました。

平成13年(2001年)、日本ベーリンガーインゲルハイムの持ち株比率は50%を超え、エスエス製薬は、ベーリンガーインゲルハイムの一員となりました。

平成15年には他社との差別化を可能とする新製品、新スイッチOTC薬を相次いで発売。

特に「ドリエル」はOTC薬で国内初となる「不眠」に対する効能を取得した薬として話題となり、売上も当初計画を大きく上回りました。また、厳しい環境下、「選択と集中」「専門性と競争力」の考え方を推し進め、平成17年(2005年)には、医療用医薬品事業を分割譲渡し、コンシューマーヘルスケア分野に特化した企業へと生まれ変わりました。

そして平成22年(2010年)、エスエス製薬はベーリンガーインゲルハイムの完全子会社となり、新製品開発や人材開発、マーケティング・流通・営業戦略などの分野において更に相乗効果を発揮する機会を得ることが可能となりました。

平成23年(2011年)には、ベーリンガーインゲルハイム ジャパングループとして新体制がスタート。日本の事業統括会社となるベーリンガーインゲルハイム ジャパン株式会社のもと、国内の同グループ企業が同じ価値を持ち、共に成長することを目指して組織されました。

同年3月に発生した東日本大震災では工場が被災しましたが、震災直後から経営陣・社員が一丸となって被災地及び被災社員をサポートしました。さらにベーリンガーインゲルハイムグループ全体からも支援を受け、この危機を乗り越えました。

一方、グローバル企業の一員となり、取り組みを加速させてきた新製品開発が実を結び、同年「アレジオン10」を発売しました。ベーリンガーインゲルハイムが開発した医療用医薬品成分エピナスチン塩酸塩を日本で初めてOTC医薬品に配合。「効き目が高く、眠くなりにくい、服用は1日1回1錠」と差別化の図れる製品で、生活者のセルフメディケーションに大きく貢献しました。

コンシューマー・ヘルスケアのリーディングカンパニーを目指して

平成29年(2017年)1月、仏サノフィの動物用医薬品事業と独ベーリンガーインゲルハイムのコンシューマー・ヘルスケア(CHC)事業の交換が完了したことにより、エスエス製薬は同年1月1日をもって サノフィ・ジャパングループの一員となりました。

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これによりエスエス製薬は、サノフィが組織する5つのグローバルビジネスユニット(GBU)の1つである、コンシューマー・ヘルスケアの事業部を担い、日本におけるコンシューマー・ヘルスケア領域のリーディングカンパニーとしてさらに躍進するフェーズを迎えました。

同年12月、日本橋浜町からサノフィ株式会社と同じ東京オペラシティタワーへ本社機能を移転。サノフィ・ジャパングループのCHC事業として、更なるシナジーの創出を目指しました。

令和

Reiwa era

さらなる飛躍を目指して

創業260年を迎えたエスエス製薬は、グローバル企業Opella.(オペラ)の一員として、次のステージへと歩み始めました。これまでの歴史と実績を礎に、新たな挑戦を続けていきます。

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2025年4月、エスエス製薬はグローバル企業Opella.(オペラ)の分社化完了に伴い、新たな体制のもとで歩み始めました。フランスの製薬会社サノフィの子会社であったエスエス製薬は、これにより、世界100か国以上でセルフケア領域の事業を展開するOpella.グループの100%子会社となりました。

Opella.(オペラ)は、世界のOTC医薬品(市販薬)およびVMS(ビタミン・ミネラル・サプリメント)市場において、世界第3位の規模を誇るセルフケアブランドポートフォリオを有する、セルフケア市場のチャレンジャーです。私たちの使命は、セルフケアを本来あるべき「シンプル」な形で提供し、世界中の人々の「健康をその手に届ける」ことです。すでに世界で5億人以上の消費者に選ばれています。

この新たなスタートに合わせ、エスエス製薬はコーポレートロゴを刷新。さらに長年親しまれてきたマスコットキャラクター「ピョンちゃん」も新デザインとなり、より現代的で親しみやすい姿に生まれ変わりました。これらは、Opellaのブランドカラーを取り入れた新たなアイデンティティの象徴でもあります。

そして「Health in Your Hands(あなたの健康を、あなたの手の中に)」というグループ共通のミッションのもと、セルフケアをよりシンプルで身近なものにする製品とサービスの提供を続けていきます。

創業から260年

エスエス製薬は、これからも暮らしのそばで、皆さまの健康に貢献してまいります。

高齢化社会を迎え、生活習慣病が増加する中で、自分自身の健康に責任を持ち、軽度な体の不調は自分で手当てするセルフメディケーションの浸透が、生活者の健康にとってますます重要になってきています。

私たちエスエス製薬は、「顧客志向」を徹底し、「スイッチOTC医薬品」など付加価値の高い医薬品を開発することにより、生活者の健康とQOL(Quality of Life)の向上に貢献し、今後のセルフメディケーションを支えてまいります。

ピョンちゃんの歴史

Pyonchan history

シンボルマークが”うさぎ”になったのは

日本神話に登場する大国主命(おおくにぬしのみこと)が因幡の白うさぎの傷を蒲の穂綿を使って治療したという物語が、日本の歴史上はじめて登場する薬らしきものであったということと、さらに「白い」という清潔感、「とび・跳ねる」という躍動感など、いくつもの意味を含んだ存在であることから、シンボルマークにふさわしいということになりました。

歴代のピョンちゃん

  • 初代誕生1952年(昭和27年)
  • 2代目1960年(昭和35年)
  • 3代目1963年(昭和38年)
  • 4代目 「シェイクハンドピョンちゃん」1967年(昭和42年)
  • 5代目 「Vサインピョンちゃん」1972年(昭和47年)
  • 6代目 「躍進ピョンちゃん」1975年(昭和50年)
  • 7代目 「スーパーピョンちゃん」1979年(昭和54年)
  • 8代目1995年(平成7年)
  • 9代目1997年(平成9年)
  • 10代目2025年(令和7年)〜